【コラム】児童文学者のつぶやき《岸本先生の人生いろいろ》~忘れられない記憶~

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寅さんシリーズ監督の山田洋次さんが、中学生時代の思い出を朝日新聞の土曜版に書いておられた。貧しかった中学時代、ちくわを売り歩いて学費を稼いでいたが、ある日売れ残ったちくわに困って、川向こうのおでん屋さんに持って行った。おばさんは「残ったちくわ、みんな置いていきな」と買い取ってくれたらしい。帰りながら涙が出て仕方なかったという。その出来事が自分の作品を作る原点になっているかもしれないというのだ(要約)。どんな人にも響いて届く「人情」というものだろうか。

その話を読んで、私も自分の生きる原点になっている出来事を二つ思い出した。
私の家は貧しく、食うに困るほどだった。そのため、高校時代の三年間は牛乳配達を一日も欠かさずにやった。そのアルバイトのお金は一度も手にしたことがない。朝は五時前に起き、牛乳屋まで歩く。配達は急な坂が続く道だったから、自転車で重い牛乳を運ぶのはかなりの労力だった。しかし辛いとか悲しいと思ったことは一度もない。それどころか、試験勉強もしたことがなく、気楽でなかなか楽しかった。ところがある雨の日のこと。大方配り終わって十本あまりの牛乳が残されていたが、ちょうど夢野町二丁目のバス停前の歩道を曲がろうとした時、スリップをして転倒した。ジャラーン!という音とともに空き瓶の破片と白い液体が流れていくのを鮮やかに覚えている。しばらく呆然としていたようで、一人の男の人が割れたかけらを集めて拾っているのにあっと気が付いた。慌てて私も拾い始めた。男の人は何もしゃべらなかった。バス停の待ち人が七人ほどいたが、みんな気の毒にという顔をして立っていた。そこへバスが来て、その人たちは吸い込まれていったが、破片を拾ってくれている人はそのバスに乗らずに、黙々と拾い集めてくれていた。大方を拾った後、私は割れた牛乳の弁償のことで頭がいっぱいで、その人にお礼を言うことなく自転車をこぎ出していた。あっ、お礼!と思って振り向くと男の人は一人、バス停の前でひっそり立っていた。引き返すのが気恥ずかしかったのか、私はそのまま自転車をこいで行ってしまった。時々そのことを思い出し、後悔と包んでくれるような温かさで涙ぐんでしまう。

包んでくれるような温かさにはもう一つの思い出がある。中学時代のブラスバンド部の顧問の吉田先生だ。私の担任ではなかったが、五歳年上の姉が中三の時に担任してもらった。ずっと後になって知ったのだが、姉は高校に進学したが制服を買うことができなかった。その姉に吉田先生は新しい制服を買ってくださったらしい。おまけに滞納していた給食費も払ってくださったという。吉田先生は私が朝礼の時に並んでいると、必ずそばを通り、肩に手を置いてくださる。その手の温かさが忘れられない。また、引っ越しをするから手伝いに来てくれと、声をかけてくださり、日曜日の一日お手伝いに行った。大きなお屋敷だった。お昼にご馳走になったカレーが忘れられない。カレーの上に生卵が乗っていた。そうなんだ、お金持ちの家ってこうして食べるんだと、しばらく光った生卵を見つめていた。先生は私が高校で牛乳配達をしているのを知って、一本配達してくれと言ってくださった。先生の家に配達するには5分ほど遠回りをしなければならないが、私は先生の家の牛乳箱に一本を入れるのが嬉しくて嬉しくて。三年間一日も休まずに牛乳配達ができたのもそれがあったからと言っても過言ではない。先生の家に届けた後、あの夢野町二丁目のバス停に出るのだが、そんな弾んだ心があったからスリップをしたのかもしれない。

黙して包み込んでくれる温かさ。ある人にとっては些細なことかもしれない。しかし私にとってはいつまでもいつまでも体内にほっこりとあり、悲しみや辛さをはね返す防護壁となっている。それが七十八才になる今日まで生きてこられたエネルギーだったような気がする。
(児童文学者 岸本進一)

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