こんにちは!ラディッシュ企画編集室のオハラです。今年のお正月、家族でタイに旅行して来ました。タイ観光と言えば寺院巡り。キンキラに輝くお寺を見て歩いている時、ふと息子が『どの建物も広陵パビリオンみたいやなぁ』と、つぶやきました。
“広陵パビリオン”と言うのはうちの近所にある自治会館の名称。我が子達にとっては毎週空手教室に通っていた馴染みの場所です。その昔、大阪万博の展示館だったからパビリオンと言う名前がついてるのだとは聞いたことがあるけど…。
息子の言葉をきっかけにその建物の事を色々調べてみたら、大変貴重な物だと言う事がわかりました!へービックリ!
今回は、我が町の…いえ、日本の宝物とも言える“広陵パビリオン”を紹介します。
目次
- 万国大博覧会(EXPO70)の遺産
- 万博の展示館がなぜ広陵町に?
- 後世に受け継ぐべき貴重な建造物
- 日本とカンボジアの架け橋
- まとめ
万国大博覧会(EXPO70)の遺産
万博公園HPより引用
今から47年前の1970年3月、世界77ヵ国が参加し大阪の千里丘陵で開かれた万国大博覧会。当時の日本人が憧れてやまなかった“世界”が、大阪にやって来た!と半年間の会期中に訪れた人の数はなんと6400万人!日本の人口の半数以上の人が押し寄せました。
RETRIPより引用
大フィーバーが閉幕した後、個性的な形の数々のパビリオンは日本を始め世界中に移築されました。
広陵パビリオンはカンボジア館を移築し自治会館に転用した物。……あれ?タイかと思ってたら違ってた!お隣の国カンボジアだったんだ…(>_<)
その後、万博から約半世紀を経た現在現存しているのは、カナダの大学図書館になったサンヨー館、岡山陸上自衛隊駐屯地のミュンヘン館、それに広陵町の自治会館になったカンボジア館の3館だけになっています。
日本国内で、万博当時の面影を間近に見られるのは今や広陵パビリオンだけなのです!
万博の展示館がなぜ広陵町に?
万博閉幕後、まだその熱気も冷めやらぬ時期に宅地分譲が始まった広陵町。開発に当たった不動産会社が、『パビリオンのある住宅地』というキャッチフレーズでこの町を売り出そう!ということで買い取り、移築する運びとなったそうです。最寄り駅(神戸電鉄山の街駅)に降り立つと、有馬街道を挟んだ山の斜面に広陵町の住宅地が広がります。
瓦屋根の間にバーンとそびえる黄色の大屋根は確かにインパクト大!街のシンボルという言葉がピッタリですね。
後世に受け継ぐべき貴重な建造物
高さ12mの黄色い鋭角の大屋根が印象的なパビリオンは、伝統文化とモダニズム建築を融合した『新クメール建築』と呼ばれる建造物。新クメール様式の建築はカンボジア国内はもちろんアジア圏内でも現存数が減っており、広陵パビリオンはとても希少な建物になっているそうです。
隣り合うカンボジアとタイの王朝は侵略や占領など複雑な関係が長く続いたので、建築様式もとても似通っているよう。息子がタイのお寺を見てそっくり!と言ったのもあながち間違いではないのですね。
広陵パビリオンには、万博の時の展示物も同時に移されています。
万博の時は外に飾られていたカンボジア王室のレリーフが館内に大切に保管されています
日本とカンボジアの架け橋
半世紀近くを経て建物の傷みが目立ち始めたパビリオンは、2016年に取り壊しの話が持ち上がりました。しかし、存続させて欲しいと言うカンボジア大使館からの要望を受け地元住民が立ちあがった結果、2020年を目指して改修する運びに!
改修が決まった昨年には、カンボジアから建築を学んでいる学生達が訪れるなど、パビリオンは日本とカンボジアを繋ぐ友好のシンボルにもなっています。
まとめ
パビリオンの外観は自由に見学する事ができます。普段の日の内部見学は、会館事務所の管理の方にお声をかけてからにして下さいね。
毎年11月3日は、広陵町の文化祭が開かれているので自由に中に入る事ができますよ。
様々なお教室に使われ、地元の人達の憩いの場として長く愛されてきた広陵パビリオン。来年からの太陽の塔内部の一般公開や、2025年の大阪万博誘致の話などを受け、再び注目を浴びる存在になるような気がします!
小原 由美
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